all everything

何度も書き直す。

ネバーマインドザブックスにむけてぼんやり描いていた全ての制作が終わった。あとは陳列類を揃える、値札作り、お釣りづくりなど。

 

なんて歪んだ自己愛が凝縮されたzineなんだという感想をずっと持ったまま入稿し刷り上がりを待っている。世に出る前からそんな調子なのは笑える。この1年間をまとめたものだが元の文字原稿は日々の出来事と生まれた感情をけがき装置並にそのまま書くから90,000文字もあった。それをせめて20,000文字にしたいと思ってたけど最終的には14000前後になった。自分が読んだらなぜそのときそう考えたのか理解できるけど説明が足りないLZHを解凍して補足して、いらない装飾語を排除して、不安発作の描写を減らして事実に基づく言葉をつかうように努めた。

書き殴りのブログを本にまとめ第三者が何が起きているかわかるように修正するプロセスは自分の現実の状態を表す言葉探しにもつながっていた。自分は最近発覚した目には見えない障害者で、そのまま10代と20代を生きたので世間様とのズレの蓄積でできたストレスと、レズビアンが理由の加害と、若い女という枠でしか捉えられないおじさんたちにたくさん傷つけられて人間が嫌いだが仕事くらいはちゃんとやりたいと思っていることがよく理解できた。

zineを入稿した直後の精神科で「障害を受容する意味も含めて障害者手帳をつくります。」と言えた。やはり文章整理で心の踏ん切りがついたのだ。

自己理解も自己開示も自分に必要な情報の収集もできてなかっから精神的な未熟さは仕方ないなとも思えた。というかけがき装置になるのはイイけど無駄な描写が多すぎ!すぐ忘れるから仕方ないのか。これで自分を俯瞰できたからこのzineの役割は私の中でもう終わっているからあとは売れても売れなくてもどっちでもいいな。でも知っている人が手に取ってくれた方がこの後自分のことを説明するの楽だな。

 

精神的な未熟さといえばこんな年齢になってから友達の家での振る舞いを指摘されて、いつもならもう2度と行かないってチョイスしかできなかったけど自分のソーシャルスキルの枯渇と相手のもう住所変わらないことによるご近所問題でミスマッチ起きてるからしょーがないなと考えた。

そもそもさんざん屋内(会議室、あれこれの人の家など)でゲームとか宅飲みとか泊まり会とか、さんっっざんやっておいて今っっっさらなんだけど、パーソナルな空間での振る舞いが全然わからない。どこかでずっと緊張しているから。緊張をほぐすにはテレビゲームなどの画面しか見なくてよい状態に持っていくかずっとなんか食べてるか筋肉を弛緩させるしかないんだけど、その弛緩をするととてもだらしない判定になるので難しい。それに口頭のコミュニケーションも屋外よりもなぜか数段ハードルが高くなる。普通に振る舞えばいいと指摘されるかもしれないが自宅で破滅的な生活を送っているから普通のモデルが終わってるんだな。終わってるというワードが出るといつもの不安連鎖が始まるからこの話は終わりますがソーシャルとパーソナルが入り混じる空間は苦手なのは変わらないってこと。

 

締切を抱えたまま文学フリマの電子カタログみていたらゆとり世代フェミニズムの人が出店してて慌てて車をぶっとばした。少し立ち読みしてから実は呪詛がめちゃくちゃ面白くて今日出店してるってわかったから面白かったって言うために来ました。って言ったらあれよあれよと今度書いてくださいっていう話になってびっくりした。ポートフォリオなんかないし急に現れてラブコールしてるだけの人間なのに…?と思ったけどこういうのはマインドが大切でクオリティじゃないのかなと反芻したし、なんなら寄稿したいとおもっている。ネバーマインドザブックスに出ることも伝えたしまたどこかで会いたい。

 

いつになるかわからないけれど(おそらく今高齢の犬が亡くなったら)知り合いおじさんの経営してるアパートに引っ越そうか〜みたいな話を一瞬親とした。母親はそのおじさんと住み、私は一人暮らしをする。飯どきだけ戻ってくるスタイルがイイんじゃないかという案が出ていて、それを飲もうと思っている。(わたしはご飯の支度ができない。入浴と洗濯はどうにかできるようになったけど、絵を全く描かない人が美術室で起きるあらゆることにポカンとしてしまうくらい何してイイかわからずできない。)母親も私の病院に同伴して心理士と話したことやコロナ陽性になったときの私の破滅的な食事などを判断材料にしてそんな提案が起きたんだと思う。共生先があるのが嬉しいが結局親なのはどこか情けない。それでもありがたいリソースがあるうちに内面の障害の受容を整え1人でも生きていける練習をしたいけど、そうなってくると週六日も働いてんの邪魔だな〜。